最近、自分がなぜ生物学を志すようになったのか考えていたら、それは意外と根が深いことに気が付いた。中学、高校の頃からもう既に生物学が一番好きな科目だったが、そんな生物学への興味を決定的にしたのは、高校2年生の時に受けたDNAからタンパク合成への所謂分子生物学のセントラルドグマの授業だった。これはもう本当に衝撃を受けたことを覚えている。おかげでそれ以降生物学にしか興味がなくなり、他の教科をあまり勉強しなかったため受験に失敗して浪人する原因ともなった。しかしながらもっと前、小学六年生の時から獣医になりたいと思っていたものだが、それはよく考えてみればもともと動物や医学に興味があったからだ。というのも、さらに小さい子供の頃を思い返すと「人体のふしぎ」とか「昆虫図鑑」みたいな本が大好きだったし、毎日のように庭でいろんな虫を見つけてはその行動を日が暮れるまで観察したりいろんな実験をしていたことを思い出す。例えば、セミや蛾の幼虫を部屋に持ち帰って羽化の様子をじっくり観察するようなことに始まり、ダンゴムシをオオアリの巣穴に押し込んでその行動を観察したり、ハナムグリを冷凍庫に入れてどうなるか見てみたり、セミの複眼に虫メガネで太陽光を集めてみたり、ザリガニに毛虫を食べさせてみたり、とまぁ考えられることを全て嬉々として試していた。つまり小さな頃から誰に教えられた訳でもなく、ただただ興味から実験生物学のまねごとをやっていた訳だ。
ところで、これまた最近自分の家系、先祖というものに興味を持ってちょっとインターネットで調べていたら、なんとWikipediaに「田守」という項目があるではないか。以下のようにある。
田守の起源は、鎌倉時代後期に北陸地方で行われていたタンボモリという役務であるとされている。このタンボモリは、主にイモチ病の発生を調べるため、水田およびその近辺の状況を毎日観察する役であり、村内の各戸が毎年持ち回りで担当していた。その後、この役は持ち回りから特定の家が代々担当するようになった。北陸地方に現存する田守姓は、タンボモリを専門職としていた家系の名残であると言われている。
室町期に入ると、職業の分化・専門化が進み、タンボモリは田守という職業となった。それまで代々特定の家系が口伝で引き継いできたが、応仁の乱で荒廃した農村を再興するべく、幕府が専門職として全国に田守職を設置した。当初は公領内のみに田守が配置されたが、その後公領周辺の農村への技術指導も行うようになり、室町時代後期には在地支配層である国人が独自に田守の任命を行っていた。
戦国時代の後期には、農村の多くで労働力が戦に駆り出されたため、農業生産力の低下が大きな問題となっていた。このため、各地の戦国大名は優秀な田守を領国に呼び込んで厚遇する反面、領内の田守が他の土地へ移動することを厳しく制限した。このことは田守が廃業する原因となり、一部の有力田守を除いて田守職に就くものは激減した。
江戸時代に入り社会が安定化するとともに、田守が各地で復活するようになる。特に米所といわれた北陸地方では、冷害から稲を守るため各藩は大量の田守を雇い、稲作の安定化に力を入れた。この時期には「農家益」や「農業全書」などの農業技術書が多く出版されたが、田守たちが伝承してきた技術が学問として体系化された時期でもあった。なお、田守職の一部は、植物に対する豊富な知識を生かして本草学へと流れていった。
(以上Wikipediaより抜粋)
本草学というのはつまり当時の生物学にあたる。生命の神秘や面白さをはじめに自分に教えてくれたのは紛れもなく庭にいた虫たちだが、もしかして自分の家系もこの「田守」に由来しているのだとすると、自分に流れる「田守」の血がそうさせたのかなぁ、などと妙に納得したのでした。
2009年6月8日月曜日
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