2009年7月26日日曜日

今日の日はさようなら

昨晩はLucy Ho's Restaurantで、ちょっと久しぶりのバンド演奏だった。セットリストは以下の通り。

1. 童神
2. 島唄
3. 花
4. 芭蕉布
5. 涙そうそう
6. 小さな木の実
7. エーデルワイス
8. えんどうの花
9. てぃんさぐぬ花
10. 時代
11. 今日の日はさようなら

以上のセットを2ステージ、そしてencoreはたぶん以下の通りだったと思うが、はっきり覚えていないな。
1. 童神
2. 花
3. 芭蕉布
4. いい日旅立ち
5. 上を向いて歩こう
6. 今日の日はさようなら


このLucy Ho's Restaurantでのライブ演奏は2007年の10月から一ヶ月から二ヶ月おきくらいに二年ほどずっとやらせてもらっていたのだが、近々Lucy Ho's RestaurantがTallahassee市内で移転することになったので、今回で一旦は終わりということになる。始めた当初はLilyaさんの三線と唄に自分のアコギがバッキングを入れるという二人編成で、しかもアンプを通さず完全に生音だけでレストランの喧騒の中頑張っていたもんだが、昨日は急遽参加して頂いたHNさんのマンドリンまで加わっていくつかの曲では豪華総勢5人で演奏していた。しかも最近はSIさんが自費で購入してくれたPA音響システムを使用させて頂いていて、始めの頃に比べると随分バンドとしてしっかりとした演奏をするようになっていたと思う。今回で一旦終了ということに加えて、この一年ほどずっとフルートを演奏してくれていた弱冠14歳のHKちゃんの一家が来月オレゴンへ引っ越してしまうということで、このメンバーで演奏するのはこれが最後かもなぁ、と思うとなんだか今までのステージを思い出したりして感慨に浸りながらの演奏になった。バンドをやっていると、演奏中になんだかメンバー同士が心で対話しているような気分になるモンだ。誰かがつまづいたり突っ走ったりしたらすぐに分かるし、それをフォローしないとと思ったり、唄の盛り上がりの部分にくると全員の気持ちが入って来るのが分かって、音がしっかりとシンクロナイズして盛り上がるのを感じる時などは本当に気持ちが良い。最後の曲「今日の日はさようなら」では自分も含めみんなが、またこのメンバーで演れる日が来るとイイなぁ、と思いながら演奏しているのを感じた。

今日メンバーから来たメールを読んでいるときに偶然、猪瀬直樹さんのメルマガ「日本国の研究」の中で竹内整一さんの「さようなら」という日本語に対する興味深い考察を見つけたので以下に一部抜粋しておく。

一般に世界の別れ言葉は、Good-bye(「神があなたとともにあらんことを祈る」)、See you again(「また会いましょう」)、Farewell(「お元気で」)、のおおよそ3タイプに分類することができる。日本にも「またね」「ごきげんよう」といった別れ言葉があるが、最も一般的な「さらば」「さようなら」(「それでは」「じゃあ」「ほな」……)は、どのタイプにも入らない。われわれは平安のむかしから、こうした言葉で別れてきたのであり、そこには日本人の心のありようが込められている。「さらば」「さようなら(ば)」とは、もともと、先行の事柄を受けて、後続の事柄が起こることを示す接続詞であるが、それがやがて、別れ言葉として自立して使われるようになったものである。そこには、「さようであるならば」と、事柄の移り行きにおいて、いったん立ち止まり何ごとかを確認することによって、次の事柄に進んで行くことができる(逆に、そうした確認がないと次に進むことができない)という、独特な発想がひそんでいる。ならば、「さようであるならば」とは、何を確認しているのか。ひとつは、別れのときまでに「みずから」に起きた事柄のあれこれの確認である。しかし、自分一個が為してきた事柄のあれこれを繋げても、それだけでは「物語」にはならない。生老病死を含め、この世に生を受けた人間誰しもにとって思いどおりにならないことがある。そのことも同時に確認されなければならない(人生とはそういうもの、という「もの‐がたり」)。それは、「この世の定め」「無常」「運命」などといった言い方でのものでもあるが、私は、それらを総じて「おのずから」という言葉を使って考えている。「みずから」の営みだけではなく、「おのずから」そうなる、ということである。より普遍的な「そうならねばならないならば」という働きとして受けとめて、それをあらためて確認・納得しようとしているのだ、と。「サヨナラ」ほど美しい別れの言葉を知らない、と言ったアメリカの紀行作家、アン・リンドバーグの理解も後者の方である。彼女は、世の中には出会いや別れを含めて自分の力だけではどうにもならないことがあるが、日本人は、それをそれとして静かに引き受け、「サヨナラ(そうならねばならないならば)」と別れているのだ、と解釈している。先に繋がる事柄の何たるかは問わないままに、ともあれ「こちら」を生き切ることによって、「向こう」の何かしらと繋がっていく、といった発想を日本人が持っていたということである。(竹内整一 2009:日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか)

ということで、今日の日はさようなら。

1 件のコメント:

  1. すばらしい演奏でした。いつもいい演奏だから、友人を誘ってもつい会話をする気になれないんですよ。

    またいつか聞ける事を願っていますね。

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